横浜・神奈川区に伝わる「浦島伝説」

日本昔話の中でも有名な『浦島太郎』は、日本全国に150か所以上もゆかりの地があるとされています。横浜市の神奈川区周辺もその一つ。古くから浦島伝説が伝わり、物語を思わせる数々の場所が残っています。

神奈川区の『浦島太郎』伝説を巡る小さな旅は、京急本線の神奈川新町駅からスタートするのが便利です。駅の中央口を出ると、早くも伝説を思わせるものを発見できます。駅のすぐ前を通る道端にある車止めが、何とも可愛らしい亀の甲羅の形に! 
この付近は海に近いため、駅から出て少し歩くと、すぐに運河を目にすることができます。昔ながらの面影を残す船着き場や木造家屋の風景が続き、散策すると非常に楽しい場所です。

神奈川新町駅から南側に広がる一帯は、その名も「浦島町」。『浦島太郎』の伝説が、地名にも色濃く反映されています。他にも「浦島丘」、「亀住町」、「七島町」、「宝町」などの地名があり、目にするたびに浦島太郎伝説を思い描きます。
運河に沿って北東の方向に進んでいくと、「子安通」という地名の場所にたどり着きます。
この子安通の一丁目に残されているのが、浦島太郎が浜から上がった後に足を洗ったとされる、「足洗いの井戸」です。現在では飲用水として利用することはできませんが、地元の方たちには長く親しまれてきた井戸であるとのことです。
この井戸は住宅がかなり密集した場所にあるため、見つけるのはなかなか至難の業です。
そして、「足洗いの井戸」から子安駅の反対側に抜け、大口通りの片隅には、同じく浦島太郎が足を洗ったとされる「足洗い川」の碑が建っています。川自体は今では暗渠となり、昔の面影を見ることはできません。 
大口通りからほど近い七島町には、浦島父子の供養塔が残る蓮法寺というお寺があります。長い階段を上った丘の上にある蓮法寺は、厳かな雰囲気が漂う魅力的なお寺です。 
この蓮法寺は、もともと浦島太郎のゆかりの品々を祀っていた「観福寿寺」というお寺が明治初期に火災でなくなったため、その一部を引き継いだという歴史があります。そのゆかりの品の一つが、浦島太郎と父親の供養塔です。
ちなみに、火災で焼失したものの中には、浦島太郎が持ち帰ったとされる玉手箱や釣り竿もあったとのこと。今となってはそれらがどのような姿だったのか、知る由もありません。 
蓮法寺から第二京浜に沿って神奈川新町駅方面に戻る途中、その名も「亀住町」という地名のエリアがあります。その公民館の横にひっそりと佇んでいるのが、浦島太郎ゆかりの品の一つ、「浦島地蔵」です。
この地蔵も、もとは先述した「観福寿寺」に祀られていて、火事の後に別の寺に移されるはずだったもの。ところが、移動の途中に運搬役の牛がこの場所で突然動かなくなり、仕方なくこの亀住町に安置されたという逸話が残されています。果たして、浦島地蔵はこの地で何を語ろうとしていたのでしょうか? 
次に訪れるのは、JR東神奈川駅の南に位置し、別名「浦島寺」とも呼ばれる「慶運寺」。浦島太郎にまつわる記念物が多く祀られています。また、江戸時代末期の横浜開港の際、フランス領事館として使用されていたことでも知られるお寺です。
入り口の石碑にはやはり亀を思わせる動物の像が見えますが、実はこれは「贔屓(ひいき)」という龍の子ども。ことわざの「贔屓の引き倒し」の語源にもなった、想像上の生き物であるとのことです。
このお寺の境内には「浦島観世音堂」というお堂があり、ここには太郎が竜宮城へ行った際に乙姫からもらったとされる、観音菩薩などが安置されています。同寺のHPによると、観音菩薩はとても柔和な面立ちで、亀の背上に立っているとのこと。12年に一度、子年にしか開帳されません。 
慶運寺からほど近い場所にある「成仏寺」は、開港当初アメリカ人宣教師の宿舎に使われていて、ヘボン(ヘボン式ローマ字の創始者)が住んでいたことでも知られています。
その成仏寺の境内に、「涙石」と呼ばれる不思議な形の石があります。これは、竜宮城から帰ってきた浦島太郎が腰を下ろし、過ぎし日を偲んで涙を流したという伝説が残る石です。不思議なことに、潮が満ちてくると湿気を含み、表面が濡れてくるとのことです。それは今でも浦島太郎が流し続ける涙の跡なのかもしれませんね。
神奈川区に残る浦島伝説ゆかりの地は、ともすると素通りされてしまうような町の片隅に、ひっそりとあります。それを地元の人々により大切に保管されています。そんな今はもう失われた古の時の風景や、昔の人々の様々な感情を想像できることと思います。

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