タイタニック号が最後に撮った衝撃的な写真の数々 2
読書部屋は無用の長物だった
一等船室の乗客用に用意された読み物や書き物をするための部屋は、女性が食後に「退出」するために設けられた部屋だった。設計者はこの部屋のカーテンにピンク色を使うなど、フェミニンに仕上げている。
出港した日の晩に、すでにこの部屋は実用的ではないことが分かった。女性のほとんどが旦那が退出した後もディナーテーブルに残り、おしゃべりを楽しんでいたのだ。設計者はこの様子を見て、次の船をデザインするときにはこの部屋を計画から削除しようと考えた。
最上階デッキには強い風が吹き込んでいた
船の最上階に位置するデッキには、救命ボートが備え付けられているため、ボートデッキとしても知られているが、船員だけでなく乗客にも開放されている唯一のデッキだった。ここは船長などオフィサー用、エンジニア用、一等船室の乗客用、二等船室の乗客用の4つのエリアに区切られていた。
つまり、三等船室の乗客はこのデッキに上がることは許されていなかった。映画タイタニックの名シーンにもなったが、実際にはジャックはボートデッキの先端で「キング・オブ・ザ・ワールド」とポーズを取ることはできなかったということだ。
室内スイミングプールには水が入ってこないようになっていた
海に周りを囲まれていたにもかかわらず、タイタニック号は船内にスイミングプールを備えた初めての遠洋定期船だった。しかし、これは今日の豪華クルーズ船に見られるようなプールではない。プールはジムの一部で、一等船室の乗客が利用できる公衆浴場のようなものだった。
プールには温められた塩水が張られ、リラックスを目的としていた。ご存知のように、スイミングプールの部屋には防水のための工夫がこらされていた。つまり、この船が沈没するときに最後に水がはいってきたのはこの部屋だったのだ。
お茶の時間は一日のうちの社交イベント
この見事なカラー写真には、バンドが演奏するバックグランド・ミュージックを聞きながら、午後のお茶を楽しんでいる女性達の様子を映し出している。軽食として、軽くバターを塗ったトーストに小さなサンドイッチが出され、女性達が夕食までの時間、小腹を満たしながら過ごすことができた。
ここでは船内でも、朝の8時からアルコールが出される数少ない場所の1つだった。一等船室の乗客用パーラーは、チョコレートからフルーツフレーバーのお酒まで、様々な種類を豊富に取り揃えていた。映画タイタニックをご覧になった人は、女性達がローズの結婚式について話していたのはこの部屋だと気づくことだろう。
デッキを結ぶ階段でさえも豪華だった
この写真でお分かりのように、階段さえも濃い茶色のオーク材に鮮やかな緑色のビロード絨毯が敷かれて、かなり贅沢なつくりだった。そのため、三等船室の乗客にとっては正面階段まで行かずとも、どこもかしこも豪華にあつらえられていると感じられることができた。三等船室の乗客用デッキにしても、だ。タイタニック号はこのように贅をつくして装飾が施されていた。
装飾が施されなかった唯一の場所は、作業室だ。足をボイラー室に踏み入れると、何の面白みもない薄い金属が張られているだけの部屋が見える。
船の施工中の交差ビーム
この写真では、タイタニック号の中央をわたる鉄鋼でできた大きな交差ブレースの傍に人が立っている。世界最大の遠洋定期船の建設は、ベルファストの造船所にて、1909年3月31日に開始された。
建設の開始から、進水まで26ヶ月の月日を要した。建設にあたっては、およそ3,000名の作業員が雇用されたと言われている。建設開始から完了の間までに、高所作業中の男性8名が落下事故により死亡している。
タイタニック号の通信室
この貴重なカラー写真は、タイタニック号の船内にある無線室で働く若い通信士の様子を写したものだ。タイタニック号には、たった1人の通信士しか乗せておらず、この通信士は日中作業し、夜間には休みを取っていた。彼は氷山が衝突した際の衝撃によって目を覚まし、最後まで遭難信号を送り続けた。
タイタニック号の沈没後、法律が改正され、複数の通信士を交代制で勤務させるよう義務付けられた。こうすることで、常に通信士が待機し、何かあったときにはすぐにSOSを発信できるからだ。
進水前のタイタニック号の船長
これは1911年6月、タイタニック号が出港する1年前に撮影されたエドワード・ジョン・スミス船長と、ベルファスト造船所の会長ジェームズ・ピリー卿の写真だ。スミス船長はホワイトスターライン社の船の船長として何度も任務についていた。そしてタイタニック号の処女航海の船長として任命されたことを誇りに思っていた。
タイタニック号が氷山に衝突したとき、スミス船長は眠っていた。乗客を船から避難させるべくできうる限りのことをしていた一方で、沈没船と共に沈んだとも、ピストルで自殺をしたとも言われている。
タイタニック号の最上階デッキに積載されていた救命ボート
今日、タイタニック号の救命ボートには定員の半数しか乗客を乗せずに船を離れたものもあったことが知られているが、たとえ定員数乗せていたとしても、すべての乗客を乗せるには救命ボートの数が足りなかった。デッキにはわずか20隻の救命ボートしかなかった。これはつまり、乗客と乗組員合わせて2,220名も乗っていたのに、そのうち、ほんの1,100名しか乗れない計算だったのだ。
沈没の混乱の中、救命ボートランチャーもまた素早く機能せず、欠陥があったことが証明されている。乗組員の多くが緊急時にどのように救命ボートを下ろすのかについて訓練を受けていなかったのだ。
タイタニック号の生存者、カルパチア船に救助を求める
最初の救命ボートがタイタニック号から下ろされたのは午後11時45分のことだった。さらに船が沈没する午前2時15分まで、懸命に救命ボートを下ろし続けた。この後、最初の救命ボートがRMSカルパチアによって救出されたのが2時間後の午前4時を回ったところだった。カルパチアが最後の救命ボートを救出し終えたのは、午前8時30分のことだった。
この写真を見ると、女性達が船を漕いでいることがうかがえる。船から最初に下ろされたのは女性と子ども達だったため、これは当然だったと言える。
カルパチア号のデッキで生存者、暖をとる
この写真は、RMSカルパチア号の最上階で陽の光を浴びながら体を休めているタイタニック号の生存者だ。この船はニューヨークからちょうど東向きに進行していたところだった。通信士がタイタニック号からSOS信号を受信し、カルパチア号の船長は直ちに航路をタイタニック号の方に変え、船が沈没した2時間後に到着したのだった。
カルパチア号の乗組員らは懸命に救助作業にあたり、712名が救出され、元々の目的地であるニューヨーク市まで無事に送り届けられたのだった。
カルパチア号の乗組員らは大いに称えられた
カルパチア号の乗組員らは、タイタニック号の生存者を救出すべく献身的な救出作業を行い、それを称えられた。この写真に写っているのは、アーサー・ロストロン船長と幹部乗組員、そしてタイタニック号の生存者から贈呈された銀杯だ。
ロストロン船長は後に、タフト大統領からホワイトハウスに招待されている。そこで、船長は最高位の賞として知られる議会名誉黄金勲章を受賞している。
カルパチア号の救出した救命ボート
当時、カルパチア号が救出したのは13隻の救命ボートだったが、残りの救命ボートは見当たらず、これがすべてだった。カルパチア号は救命ボートの生存者らをホワイトスターライン社に戻そうとニューヨークまで運んだ。
残念ながら、写真に写っているピア(桟橋)59に浮かべられている救命ボートはお宝ハンターや略奪者によって荒らされた。時が経ち、救命ボートは歴史の闇の中に埋もれている。ホワイトスターライン社でその後も使われたか、または人知れず処分されたのだろう。
世界中の人々が被害者のために募金活動をした
タイタニック号沈没の余波はイギリスとアメリカだけにとどまらず、世界中にそのニュースは広まった。タイタニック号は、世界のあちこちの乗客を乗せていたのだろう。
この写真は、ストラトフォードのボーイスカウトの子ども達がタイタニック号の生存者のために募金を集めているところだが、募金活動をしていたのは彼らだけではない。タイタニック号を建設し、所有していたホワイトスター社も救済資金を設立し、被害者の家族や生存者に何千ドルも支払った。
生存者はニューヨーク市の避難所に
ニューヨーク到着後、多くの生存者は同情してくれる人々からの援助を受けなければならなかった。中にはニューヨークに友人や家族がいるという幸運な人もいたが、多くの人は資金援助が寄せられるまで待たなければならなかったからだ。
この写真は、援助が得られるまで仮設避難所にいた人達のものだ。ありがたいことに、一度沈没のニュースによる衝撃が引くと、ニューヨークの人の中には生存者に同情し、資金が得られるまで家に住まわせたりする者もいた。
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